「冗長さRedundanz」の詩学 ――佐々木友輔『夢ばかり、眠りはない』について
渡邉大輔(映画研究者・批評家)
佐々木友輔監督の最新長編『夢ばかり、眠りはない』(2010年)は、いってしまえば完全な傑作とは呼び難いフィルムである。
むろん、これを単純な否定的断定だと取られると困る。実際、本作は年齢からすればきわめて早熟と呼べるほどに、すでに国内外の映画祭でも一定の実績と評価を重ねているこの若い映像作家のひとつの総決算と呼びうる野心作には相違ないからだ。まして、ことと次第によっては、佐々木が敬愛する『リトアニアへの旅の追憶』(1972年)の作家に準えて、ゼロ年代以降の日本映画が持ちえた最も巧緻で純粋な「日記映画」のひとつだと呼んでも構うまい。――にも拘わらず、それを観る者の多くに以上のような茫漠とした感慨を起こさせる特異なフィルムであるのも、また事実だろう。そう、ことは少々(言葉の真の意味で)複雑なのだ。どういうことか。おそらく私は、ここでその理由を説明するために、佐々木に関するそれなりの量の作家論を書かなければならないはずだ。だが、いまはその余裕がない。したがって、その内実の一端に短く触れるに留めたい。
まず私の右の言辞には、それを客観的に眺めた場合、いくつかの付随的な理由が挙げられよう。例えば、フィルムとしての、単純な意味での「不完全さ」。かねてから自作を構成する物語やイメージに哲学から文学、サブカルチャーまで多様なジャンル的文脈を記号的断片として挿入させてきた佐々木の「知性派作家」としての特質が、本作においては必ずしも過不足なく端正に収まっているわけではない点をして、「完全な傑作」とは呼び難い、といういくつかの匿名的な視点が存在しうるはずだ。前作『彁 ghosts ver.3』(2009年)などの長編をはじめ、これまでにも佐々木は、マン・レイからハンス・リヒターなどの20年代ヨーロッパ・アヴァンギャルド、スタン・ブラッケージなどの戦後実験映画、あるいはリュミエール兄弟からダグラス・ゴードンまで、古今東西の映画史(美術史)的記憶の古層をスマートかつ軽やかに「再演」してみせた実験的短篇連作「ある映画史」シリーズ(2007年〜)などで自作に知的な構築性を多分に付与してきた。ほかならぬ本作でいえば、それは作中に具体的なイメージや固有名とともに次々と掲げられていく、いわゆる「ゼロ年代の批評」に含まれる、「郊外論」や「ロスジェネ論壇」「オタク論」……といった昨今流行の社会学的・文化批評的言説群の挿入に当たるだろう。その手つきの「冗長さ」(文脈への過度の配慮)は、確かに、この作家の本来持つ、もう一方の美質である豊かなフィルム的感性といささか乱暴なまでに鮮烈なミザンセンの配列を裏切っているようにも見える。――例えばその点を、本作の「完全性」を損ねるいくばくかの瑕疵として指摘することもさほど難しくはないはずだ。
だが、と同時に、彼のフィルムが湛える独特の世界観に魅了された者は、そうした性急な指摘に対してすぐさま反論する用意をも持っている。何をいう、そもそも佐々木友輔とはそのデビュー長編『手紙』(2002年)以来、ほとんど一貫してその過剰なまでの「冗長さ」こそを主題的かつ形式的に最大の作家的美質として洗練させてきたのであり、例えば『手紙』であれば、全編長回しによって圧倒的なフィルム的物質性に還元された日常の弛緩した時間のリアリティと、その中で延々交わされるどこか不気味に切迫した無言の携帯電話メールの往復とが、危うい均衡を保ちながら過激に直交する、あの残酷な「冗長さ」を一目観た者ならばそのことは容易く理解できるはずだ、と。だとすれば、私たちは本作においてその彼ならでは冗長さを、これまでの佐々木の作品では珍しい「時事的」な主題が不可避的に含み持つ言説的文脈への過度の目配せよりも、むしろいかにもこの作家らしいディジタルキャメラの手ブレ映像で撮影された散文的な「郊外」風景の詩的な重なりをひとつの技巧的達成としてポジティヴに評価すべきではないか。――およそ、以上のような具合に。とはいえ、これらの言葉は、私には、冒頭の感慨の内実を充分に捉え切れていないように思われる。少なくとも、本作が示すイメージはあまりにも過剰な細部をいくつも抱え込んでおり、安易な批評的要約を許さないのだ。少なくとも、私の考えでは、本作のより重要な局面は先に挙げた佐々木作品の持つ「冗長さ」を、もっと違う側面から適切に捉えることが必要になってくるだろう。
『夢ばかり、眠りはない』は、劇場公開からほぼ正確に二年前に起こった、「秋葉原連続無差別殺傷事件」を契機とした一種の「擬似ドキュメンタリー」(モキュメンタリー)として構成されている。具体的には、本作は今年(2010年)一月、突如失踪した(とされる)アマチュア女性映像作家・佐々木累(かさね)が残した日記とビデオテープを元に構成された独白と擬似ファウンド・フッテージによって物語られる。フェード・インして冒頭、茨城県・取手の殺風景な街中、少し曇天の空や初秋の舗道のアスファルトを仰角気味にラフなハンディカムで撮影した映像に被って聞こえてくる、低く穏やかな女性の声。声の主は、佐々木累の大学時代の先輩(小林千花)。彼女の親しい友人でもあった小林は、映像作家志望の累の残したビデオテープをひとつのフィルムに構成し、そこに彼女の日記の朗読を重ねることで、いなくなった後輩の秘められた思いとイメージを蘇生させようとするのだ。小林の語りによって明らかになる累の痕跡――そこには、彼女が密かに思いを寄せていた友人=「K」と、他方でKの後輩の生命を奪った秋葉原事件の容疑者(加藤智大)への思いとが、幾重にも絡まり合いながら重層的な「追憶」のモザイクを形作っていく……。
こうした本作が抱える社会的文脈(郊外論など)への参照については、藤田直哉氏が私的な実感を交えながらレビューで触れているので、私はあえてここでは、純粋にひとつのフィルムとしてもっと形式的に読み込んでみることにしよう。巧緻な「擬似ドキュメンタリー」として撮られた『夢ばかり、眠りはない』はいうまでもなくそれ自体がきわめて形式に特化したフィルムであるとともに、優れて「(ポスト)ゼロ年代的」な感性に基づいていると容易く断言しうる(擬似ドキュメンタリー的手法とゼロ年代的リアリティとの関連については、例えば『早稲田文学増刊 wasebunU30』所収の拙稿を参照のこと)。とはいえ、その「形式性」の内実をより細かく敷衍してみると、ここで注意すべきなのは、先に簡単に示しておいたように、本作を構成する無数の細部(モジュール)がきわめて多層的な「コミュニケーション」の反復的な連なり(創発的現実)に還元されていることだろう。思えば、本作がその中心的なモティーフとして採用した秋葉原連続無差別殺傷事件が現代社会に提起した大きな問題構成のひとつは、(容疑者が犯行前や犯行直前に無数のインターネット上の匿名掲示板や出会い系サイトに書き込み・利用を続けていたことに表れているように)いうまでもなく高度にモバイル化され簡略化された情報インフラ(アーキテクチャ)による他者(環境)との「コミュニケーション」(差異化)の飽和化した現状にほかならない。その意味では、本作の堅固な形式性はそのままシームレスにその物語的主題を反映させている。ここに、まず佐々木の紛れもない聡明さと企図を見るべきだろう。
例えば、物語の冒頭直後から示される小林によるモノローグ(朗読)は、終始「君」という二人称――すなわち、「K」への語りかけというコミュニケーションの挙動に「亡霊的」に憑かれることになるし、当然ながら、そこには、語りかけられる作中人物の「K」と、現実世界のもう一人の「K」(=加藤智大)、あるいは、語る「小林千花」(第三の「K」!)の声と、その語りの不可視の起源としての「佐々木累」(第四の「K」=「かさね」!)の「声」……といったいくつもの要素が二重写しになって交錯している(ここに、私たちは前作からの佐々木の問題意識の密かな通底性を読むことができる)。しかもそれは、累の日記のそこここにインサートされた、カフカ(『城』の「K」)や梶井基次郎(『Kの昇天』の「K君」)、夏目漱石(『こゝろ』の「K」)……といった膨大な数の文献の「引用」(「K」)のオーバーラップとも重なっているだろう。そもそも物語の核となる女性の名前(=累)が明確に暗示するように、まさに以上のように重ね掛け(累積)されたコミュニケーション行為こそが、この映画の想像力をドライブしているといって間違いない。もう少し穿って考えるならば、そもそも「K」とは彼らの絶え間ない「コミュニケーション Kommunikation」や「カップリング Kopplung」それ自体だ、といってもよいかもしれない。そうした作中人物たちの(ファースト・オーダーの)コミュニケーションに視線を向けるセカンド・オーダーの観察者としての佐々木(のコミュニケーション)もまた、不可避的にそのネットワークの中に溶かし込まれていかざるをえない。
いずれにせよ、『夢ばかり、眠りはない』のこうした構成要素の数々は、グレゴリー・ベイトソン(『精神の生態学』)がいう意味での「差異を生む差異」としての「情報」に様式化されているわけだ。つまり、ここには純粋に「情報化」された経験が描かれている。したがって、本作においても佐々木が試みるディジタルの手ブレ撮影によって画面のいたるところに挿入された、時に「モアレ感」すら漂わす肌理の粗いぼやけた超クロースアップによる風景もまた、そうした映像と音声によるネットワーク化されたコミュニケーションの具体的表象だと看做してよい。本作の「郊外」の風景を、ピラネージから黒沢清まで、ロマン主義的な「廃墟」の美学(谷川渥)に安易に結びつけて語ることの錯誤はここにある。本作における佐々木の感性は、そうした密室化された近代的価値観に一見接近していながら、それを容赦なく相対化するのだ。いうなれば、本作におけるフィルムとしての画期のひとつは、個々の映画的モジュールを語の厳密な意味でコミュニケーションの反復的なプロセシングに還元させたことにあるだろう。おそらく、本作において佐々木が達成した他に換え難い重要なフェーズはここにこそある。
すなわち、私たちは『夢ばかり、眠りはない』によって、映画を厳密な意味で「システム論的」に改めて定式化することができるようになるはずだ。それは例えば、イメージの作動を従来の美学的な単独性(固有性)によって価値づけるのではなく、カオティックな世界の相貌にアド・ホックな楔を順次打ち込み、そこから自己言及(システム)と他者言及(環境)の区別という量子論的な「対称性の破れ」(非対称性)を前提としたコミュニケーションの継続によって自らの「現実」(システム)を随時縁取っていくという、まったく新しいイメージの文化的秩序となる。ポストモダンの全体社会における「芸術」の機能システムを分析してみせた後期ルーマンの仕事(『社会の芸術』)を踏まえるならば、私たちはもしかすると、そこからいわば「映画的システム」といったようなものの挙動を繊細に敷衍することができるのかもしれない。
ここで唐突に、結論めいたことを述べるとしよう。先に私は佐々木の最も特異な作家的美質のひとつを、その「冗長さ」にあると規定しておいた。そのことに疑いはない。とはいえ、それは本作においては、むしろシステム論的な意味での「冗長さ Redundanz」、すなわち、美学的な「変異性」を前提的に支える、再認可能な形式的秩序(規則性)の累積として表れている、と理解すべきではないか。『夢ばかり、眠りはない』とは、少なくとも私にとっては、そうしたいわば「冗長さの詩学」を見事に具現化した稀有なフィルムのひとつだといえる。本作がその危ういモティーフが不可避に呼び寄せがちな、自堕落な倫理主義を払底し、あくまでも峻厳な映画世界を最後まで崩していないのは、ひとえにこうした佐々木の「形式」への適切な配慮にある。したがって、次のこともまた自明であろう。つまり、本作の題名である「夢ばかり、眠りはない」とは、不断に「変異・選択・再安定化」という進化論的推移を描く「夢」(コミュニケーション)の終わりなき作動を暗示している。すなわち、オートポイエティックなコミュニケーションが決して他者に到達できないように、このフィルムの描く映画的コミュニケーションの累積もまた、永遠にひとつの全体性=完全性を形作ることはない。冒頭で私が書いた言辞の意味はここに込められている。『夢ばかり、眠りはない』の「不完全な傑作」としての属性は、いってみればそのラディカルさゆえの構造的要因に由来するのだ。
佐々木友輔の『夢ばかり、眠りはない』は――あるいは『夢ばかり、眠りはない』の佐々木友輔は、といってもよいだろうが――、永遠に到来しないだろう完成=全体性に向かって不断に峻厳なコミュニケーションを投げかける、一つの透徹した「まなざし」にほかならない。
それゆえに、最後に念のためいい添えておく――私たちもまた、その画面と永遠にコミュニケートし続けなければならないだろう。油断してはならない。
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