藤田直哉(SF・文芸評論家)渡邉大輔(映画研究者・批評家)/
丸田ハジメ(研究者・評論家)石幡愛(東京大学大学院教育学研究科)
西田陽美(大学生・東京芸術大学)(すべて敬称略) 

 

無意味な世界で、孤独で空虚な幽霊として彷徨うこと

藤田直哉(SF・文芸評論家)


佐々木友輔氏の『夢ばかり、眠りはない』を観たとき、いささかの衝撃を受けた。この世界そのものの存在が全く無意味で空虚なものであり、自分自身はその中を永遠に彷徨う幽霊でしかないという感覚を強く受けたからだ。この映画を観る観客は、荒んだ景色をビデオカメラの粒子の粗い映像で映し、一切の「映画的情緒」や「ロマン」を剥ぎ取られた剥き出しの郊外と向き合わされる。我々は普通、世界を見ていても、脳が自動的にフィルタリングを行っている。佐々木のカメラ(作中人物のカメラとされているが)は普通では見過ごすような、郊外的荒廃のようなものへの感度が高く、そこに焦点化された映像は必然的に我々にそれを突きつける。

僕は以前、「Xamoschi」という、場所に関する同人誌を作ったことがある(現在は講談社BOX『東浩紀のゼロアカ道場 伝説の「文学フリマ」決戦』に収録されている)。そこでは郊外や地方の問題を扱った。さらに、地方出身者の見ている光景、そしてその「土地」の作り出す内面の問題を主題として、北海道の、千歳という何もない都市で自意識と暴力とを妄想的に描くいわゆる「セカイ系」作家の佐藤友哉氏を論じた文章を書いた(限界小説研究会編『社会は存在しない』所収)。その後者の論文を読んだ佐々木氏が問題意識の類似を感じ、僕にアクセスしてくれて、DVDを送ってくれたのだった。

僕が文章で言いたかったことは、映像で現すならばこういうことだ、と思った。「俺の見ていた景色だ」と思った。世界の大半は荒涼とした意味も価値もない荒んだ空間であり、そこからは絶対に逃げることができないという感覚を久々に思い出させてくれた。この映画は取手を中心に、神戸や秋葉原なども描くが、日本の郊外とはこのような荒んだ場所なのだと再確認できた。テレビドラマやトレンディドラマ、あるいは類型的な「日本」や「東京」を扱った『恋愛百景』のような作品が映さない、この世界の大半を占めている土地が映っていると思った。

以前、google streetviewで、パリやロンドン、ロサンゼルスやニューヨークなど、先進国の有名な都市をランダムに見ていったことがある。その時、見当をつけないでクリックすれば、いくら都市近郊であっても、見えるのはこのような荒んだ景色ばかりだった。ロマンも情緒も歴史性もない。何もかもが剥ぎ取られた荒涼とした土地。人間の住んでいる場所の大半は、先進国ですらこんなものなのかと思うと、暗澹たる気持ちになった覚えがある。と同時に、僕はこの荒涼感に懐かしさを感じている自分を発見して驚いたりもした。舗装の未熟な道路、謎の建物、変な看板、放置されたゴミ、無造作な電線、そんな景色が、田んぼの稲穂や神社仏閣や日本庭園などよりも、ずっと僕の情緒を揺さぶるのだ。それは僕の故郷がニュータウンであり、すぐ近くには産業廃棄物が不法投棄されているような荒野が広がっていたからだと思うのだが、この情緒性のなさに突き放される感覚こそが、世界の真実の姿であり、「故郷」そのものなのではないかという変な錯覚を覚えたのだ。

正直に言うと、僕はこの映画の中で語られている思想的・批評的言葉に対してはそれほど興味が持てない。僕がこの作品に凄いと思う一点は、見事な視点の感覚と膨大な彷徨で「場所」を映し続け、その「無意味さ」、あるいは「この空虚で荒廃した世界で幽霊のように彷徨っている自分」の孤独と恐怖を徹底して体験させ、そしてそれが酒鬼薔薇事件や加藤事件のような暴発に至る心境にまで追い詰めていく、その映像の説得力である。もっと正確に言うならば、「この世界は生きるに値しない空虚だ」と見せ付ける感覚と、「自分が生きる価値のない世界に空虚に生きている幽霊であるならば、他人を殺しても構わないだろう」と思わせる力である。これは言葉によって生じているわけではない。多動性気味に、適切に「嫌な感じ」のところばかりを撮り続けながら彷徨うこのカメラの運動がそれを生み出しているのだ。

最近流行の「ジモト」議論というのがある。郊外化(ファスト風土化)によって伝統的な共同体が崩壊し、人々の接触が失われたことが問題であり、人々との繋がりを確保すべきだという議論である。確かに社会学的には、人々が繋がっている共同体の方が自殺率も低く、孤独な個人主義だと自殺率が上がる。このカメラは明らかに後者に属しており、この彷徨自体が何か「繋がり」の対象を求めているかのようでもある。インターネットやオタク・コンテンツが「繋がり」志向になり、コミュニケーション志向の作品が現に成功しているが、そのようなコンテンツ・ユーザーの心境をまるでこのカメラは代弁しているかのようである。僕はその出現に否定的だが、スタッフロールのラストに現れる映像には、人々がそのようなオタク・コンテンツや「繋がり」に飛び込む「未然の光景」を作品全体が示しているという含意を含んでいるようだ。この作品は作品自体が願望充足のための作品を提示するのではなく、その手前の、そのようなコンテンツを求める心性の正体を、実も蓋もない粒子の粗いカメラで暴き出しているところが、いいのである。

そのような「剥き出しの世界」における、原初的な破壊性と運動性と孤独感が、この映像の動きとカッティングからは強く染み出している。僕は擬似ドキュメンタリー的主題や秋葉原事件などの主題や思想的言葉よりも、そこにこそこの作品の可能性があると考えている。

世界にも人生にも自分自身の生存にも、何の価値も意味もない、しかしそこで殺人に向うのか、「だからこそ」価値や意味を感じられる何かに賭けて「創造」に向うのか。この世に意味や価値がないからこそ、人間の概念や価値観を言葉によって作り、社会を構築し、家族や恋人を形成し、娯楽作品を作ったり芸術作品を作ったり、批評の真似事のような文章を書いてみたりして、そうやってこの「無意味」を糊塗してやり過ごすしかないのだという、「創作」の未然の原点こそがここにあるように僕は思った。

多分、僕が「懐かしい」と思ったのも、そのせいなのだろう。多分に個人的な感情が入りまじっていると思うが、僕はこのカメラの映し出す、無意味で無価値で幽霊的な光景に、現代の文化の生み出される、忘却され隠蔽された「ふるさと」を見出してしまうのだ。


 



「冗長さRedundanz」の詩学 ――佐々木友輔『夢ばかり、眠りはない』について

渡邉大輔(映画研究者・批評家)


佐々木友輔監督の最新長編『夢ばかり、眠りはない』(2010年)は、いってしまえば完全な傑作とは呼び難いフィルムである。

むろん、これを単純な否定的断定だと取られると困る。実際、本作は年齢からすればきわめて早熟と呼べるほどに、すでに国内外の映画祭でも一定の実績と評価を重ねているこの若い映像作家のひとつの総決算と呼びうる野心作には相違ないからだ。まして、ことと次第によっては、佐々木が敬愛する『リトアニアへの旅の追憶』(1972年)の作家に準えて、ゼロ年代以降の日本映画が持ちえた最も巧緻で純粋な「日記映画」のひとつだと呼んでも構うまい。――にも拘わらず、それを観る者の多くに以上のような茫漠とした感慨を起こさせる特異なフィルムであるのも、また事実だろう。そう、ことは少々(言葉の真の意味で)複雑なのだ。どういうことか。おそらく私は、ここでその理由を説明するために、佐々木に関するそれなりの量の作家論を書かなければならないはずだ。だが、いまはその余裕がない。したがって、その内実の一端に短く触れるに留めたい。

まず私の右の言辞には、それを客観的に眺めた場合、いくつかの付随的な理由が挙げられよう。例えば、フィルムとしての、単純な意味での「不完全さ」。かねてから自作を構成する物語やイメージに哲学から文学、サブカルチャーまで多様なジャンル的文脈を記号的断片として挿入させてきた佐々木の「知性派作家」としての特質が、本作においては必ずしも過不足なく端正に収まっているわけではない点をして、「完全な傑作」とは呼び難い、といういくつかの匿名的な視点が存在しうるはずだ。前作『彁 ghosts ver.3』(2009年)などの長編をはじめ、これまでにも佐々木は、マン・レイからハンス・リヒターなどの20年代ヨーロッパ・アヴァンギャルド、スタン・ブラッケージなどの戦後実験映画、あるいはリュミエール兄弟からダグラス・ゴードンまで、古今東西の映画史(美術史)的記憶の古層をスマートかつ軽やかに「再演」してみせた実験的短篇連作「ある映画史」シリーズ(2007年〜)などで自作に知的な構築性を多分に付与してきた。ほかならぬ本作でいえば、それは作中に具体的なイメージや固有名とともに次々と掲げられていく、いわゆる「ゼロ年代の批評」に含まれる、「郊外論」や「ロスジェネ論壇」「オタク論」……といった昨今流行の社会学的・文化批評的言説群の挿入に当たるだろう。その手つきの「冗長さ」(文脈への過度の配慮)は、確かに、この作家の本来持つ、もう一方の美質である豊かなフィルム的感性といささか乱暴なまでに鮮烈なミザンセンの配列を裏切っているようにも見える。――例えばその点を、本作の「完全性」を損ねるいくばくかの瑕疵として指摘することもさほど難しくはないはずだ。

だが、と同時に、彼のフィルムが湛える独特の世界観に魅了された者は、そうした性急な指摘に対してすぐさま反論する用意をも持っている。何をいう、そもそも佐々木友輔とはそのデビュー長編『手紙』(2002年)以来、ほとんど一貫してその過剰なまでの「冗長さ」こそを主題的かつ形式的に最大の作家的美質として洗練させてきたのであり、例えば『手紙』であれば、全編長回しによって圧倒的なフィルム的物質性に還元された日常の弛緩した時間のリアリティと、その中で延々交わされるどこか不気味に切迫した無言の携帯電話メールの往復とが、危うい均衡を保ちながら過激に直交する、あの残酷な「冗長さ」を一目観た者ならばそのことは容易く理解できるはずだ、と。だとすれば、私たちは本作においてその彼ならでは冗長さを、これまでの佐々木の作品では珍しい「時事的」な主題が不可避的に含み持つ言説的文脈への過度の目配せよりも、むしろいかにもこの作家らしいディジタルキャメラの手ブレ映像で撮影された散文的な「郊外」風景の詩的な重なりをひとつの技巧的達成としてポジティヴに評価すべきではないか。――およそ、以上のような具合に。とはいえ、これらの言葉は、私には、冒頭の感慨の内実を充分に捉え切れていないように思われる。少なくとも、本作が示すイメージはあまりにも過剰な細部をいくつも抱え込んでおり、安易な批評的要約を許さないのだ。少なくとも、私の考えでは、本作のより重要な局面は先に挙げた佐々木作品の持つ「冗長さ」を、もっと違う側面から適切に捉えることが必要になってくるだろう。

『夢ばかり、眠りはない』は、劇場公開からほぼ正確に二年前に起こった、「秋葉原連続無差別殺傷事件」を契機とした一種の「擬似ドキュメンタリー」(モキュメンタリー)として構成されている。具体的には、本作は今年(2010年)一月、突如失踪した(とされる)アマチュア女性映像作家・佐々木累(かさね)が残した日記とビデオテープを元に構成された独白と擬似ファウンド・フッテージによって物語られる。フェード・インして冒頭、茨城県・取手の殺風景な街中、少し曇天の空や初秋の舗道のアスファルトを仰角気味にラフなハンディカムで撮影した映像に被って聞こえてくる、低く穏やかな女性の声。声の主は、佐々木累の大学時代の先輩(小林千花)。彼女の親しい友人でもあった小林は、映像作家志望の累の残したビデオテープをひとつのフィルムに構成し、そこに彼女の日記の朗読を重ねることで、いなくなった後輩の秘められた思いとイメージを蘇生させようとするのだ。小林の語りによって明らかになる累の痕跡――そこには、彼女が密かに思いを寄せていた友人=「K」と、他方でKの後輩の生命を奪った秋葉原事件の容疑者(加藤智大)への思いとが、幾重にも絡まり合いながら重層的な「追憶」のモザイクを形作っていく……。

こうした本作が抱える社会的文脈(郊外論など)への参照については、藤田直哉氏が私的な実感を交えながらレビューで触れているので、私はあえてここでは、純粋にひとつのフィルムとしてもっと形式的に読み込んでみることにしよう。巧緻な「擬似ドキュメンタリー」として撮られた『夢ばかり、眠りはない』はいうまでもなくそれ自体がきわめて形式に特化したフィルムであるとともに、優れて「(ポスト)ゼロ年代的」な感性に基づいていると容易く断言しうる(擬似ドキュメンタリー的手法とゼロ年代的リアリティとの関連については、例えば『早稲田文学増刊 wasebunU30』所収の拙稿を参照のこと)。とはいえ、その「形式性」の内実をより細かく敷衍してみると、ここで注意すべきなのは、先に簡単に示しておいたように、本作を構成する無数の細部(モジュール)がきわめて多層的な「コミュニケーション」の反復的な連なり(創発的現実)に還元されていることだろう。思えば、本作がその中心的なモティーフとして採用した秋葉原連続無差別殺傷事件が現代社会に提起した大きな問題構成のひとつは、(容疑者が犯行前や犯行直前に無数のインターネット上の匿名掲示板や出会い系サイトに書き込み・利用を続けていたことに表れているように)いうまでもなく高度にモバイル化され簡略化された情報インフラ(アーキテクチャ)による他者(環境)との「コミュニケーション」(差異化)の飽和化した現状にほかならない。その意味では、本作の堅固な形式性はそのままシームレスにその物語的主題を反映させている。ここに、まず佐々木の紛れもない聡明さと企図を見るべきだろう。

例えば、物語の冒頭直後から示される小林によるモノローグ(朗読)は、終始「君」という二人称――すなわち、「K」への語りかけというコミュニケーションの挙動に「亡霊的」に憑かれることになるし、当然ながら、そこには、語りかけられる作中人物の「K」と、現実世界のもう一人の「K」(=加藤智大)、あるいは、語る「小林千花」(第三の「K」!)の声と、その語りの不可視の起源としての「佐々木累」(第四の「K」=「かさね」!)の「声」……といったいくつもの要素が二重写しになって交錯している(ここに、私たちは前作からの佐々木の問題意識の密かな通底性を読むことができる)。しかもそれは、累の日記のそこここにインサートされた、カフカ(『城』の「K」)や梶井基次郎(『Kの昇天』の「K君」)、夏目漱石(『こゝろ』の「K」)……といった膨大な数の文献の「引用」(「K」)のオーバーラップとも重なっているだろう。そもそも物語の核となる女性の名前(=累)が明確に暗示するように、まさに以上のように重ね掛け(累積)されたコミュニケーション行為こそが、この映画の想像力をドライブしているといって間違いない。もう少し穿って考えるならば、そもそも「K」とは彼らの絶え間ない「コミュニケーション Kommunikation」や「カップリング Kopplung」それ自体だ、といってもよいかもしれない。そうした作中人物たちの(ファースト・オーダーの)コミュニケーションに視線を向けるセカンド・オーダーの観察者としての佐々木(のコミュニケーション)もまた、不可避的にそのネットワークの中に溶かし込まれていかざるをえない。

いずれにせよ、『夢ばかり、眠りはない』のこうした構成要素の数々は、グレゴリー・ベイトソン(『精神の生態学』)がいう意味での「差異を生む差異」としての「情報」に様式化されているわけだ。つまり、ここには純粋に「情報化」された経験が描かれている。したがって、本作においても佐々木が試みるディジタルの手ブレ撮影によって画面のいたるところに挿入された、時に「モアレ感」すら漂わす肌理の粗いぼやけた超クロースアップによる風景もまた、そうした映像と音声によるネットワーク化されたコミュニケーションの具体的表象だと看做してよい。本作の「郊外」の風景を、ピラネージから黒沢清まで、ロマン主義的な「廃墟」の美学(谷川渥)に安易に結びつけて語ることの錯誤はここにある。本作における佐々木の感性は、そうした密室化された近代的価値観に一見接近していながら、それを容赦なく相対化するのだ。いうなれば、本作におけるフィルムとしての画期のひとつは、個々の映画的モジュールを語の厳密な意味でコミュニケーションの反復的なプロセシングに還元させたことにあるだろう。おそらく、本作において佐々木が達成した他に換え難い重要なフェーズはここにこそある。

すなわち、私たちは『夢ばかり、眠りはない』によって、映画を厳密な意味で「システム論的」に改めて定式化することができるようになるはずだ。それは例えば、イメージの作動を従来の美学的な単独性(固有性)によって価値づけるのではなく、カオティックな世界の相貌にアド・ホックな楔を順次打ち込み、そこから自己言及(システム)と他者言及(環境)の区別という量子論的な「対称性の破れ」(非対称性)を前提としたコミュニケーションの継続によって自らの「現実」(システム)を随時縁取っていくという、まったく新しいイメージの文化的秩序となる。ポストモダンの全体社会における「芸術」の機能システムを分析してみせた後期ルーマンの仕事(『社会の芸術』)を踏まえるならば、私たちはもしかすると、そこからいわば「映画的システム」といったようなものの挙動を繊細に敷衍することができるのかもしれない。

ここで唐突に、結論めいたことを述べるとしよう。先に私は佐々木の最も特異な作家的美質のひとつを、その「冗長さ」にあると規定しておいた。そのことに疑いはない。とはいえ、それは本作においては、むしろシステム論的な意味での「冗長さ Redundanz」、すなわち、美学的な「変異性」を前提的に支える、再認可能な形式的秩序(規則性)の累積として表れている、と理解すべきではないか。『夢ばかり、眠りはない』とは、少なくとも私にとっては、そうしたいわば「冗長さの詩学」を見事に具現化した稀有なフィルムのひとつだといえる。本作がその危ういモティーフが不可避に呼び寄せがちな、自堕落な倫理主義を払底し、あくまでも峻厳な映画世界を最後まで崩していないのは、ひとえにこうした佐々木の「形式」への適切な配慮にある。したがって、次のこともまた自明であろう。つまり、本作の題名である「夢ばかり、眠りはない」とは、不断に「変異・選択・再安定化」という進化論的推移を描く「夢」(コミュニケーション)の終わりなき作動を暗示している。すなわち、オートポイエティックなコミュニケーションが決して他者に到達できないように、このフィルムの描く映画的コミュニケーションの累積もまた、永遠にひとつの全体性=完全性を形作ることはない。冒頭で私が書いた言辞の意味はここに込められている。『夢ばかり、眠りはない』の「不完全な傑作」としての属性は、いってみればそのラディカルさゆえの構造的要因に由来するのだ。

佐々木友輔の『夢ばかり、眠りはない』は――あるいは『夢ばかり、眠りはない』の佐々木友輔は、といってもよいだろうが――、永遠に到来しないだろう完成=全体性に向かって不断に峻厳なコミュニケーションを投げかける、一つの透徹した「まなざし」にほかならない。

それゆえに、最後に念のためいい添えておく――私たちもまた、その画面と永遠にコミュニケートし続けなければならないだろう。油断してはならない。
 


 



「夢ばかり、眠りはない」の試み

丸田ハジメ(研究者・評論家)


■映画形式

約2時間に及ぶ上映時間も後半になると、スクリーンに焦点を合わせようとする努力を放棄することになる。手ぶれ映像は、視覚を後退させる。ハスキーボイスのモノローグや、膨大な郊外風景に身を委ねる一方で、硬く小さな椅子のおかげで緊張感が持続して半眼のような心身状態に陥るが、意外に心地よい。映画とは無関係に雑念が浮かんでしまう。
映画が、アウラを再現するメディアだとすると、それは監督(映像作家)の目(視線)を借りて進められる。しかし、大量の手ぶれ映像がもたらす視覚的な揺らぎは、容易にそれを許してくれない。それだけでなく、本作で設定された目はそもそも佐々木累であり、累の友人のものであり、そこに作家本人が制作という立場で現れ、視座が多重に配置されている。借りてくる目が遷移することで、映画に奥行きが生まれるものの、われわれを不安にさせる。
そして、アウラを発するべき対象は、最後まで現れない。その代わり背景にある郊外風景が流れていく。章立てや、映像構成、また独白の物語りも視覚とともに後退し、やがてピンぼけの郊外風景が、送り手と受け手の協働作業で全景化する。
映画の形式が問われていると思った。本作がわれわれに貸し出すのは目(視線)でなく、目(視覚)を減衰させた身体感覚である。あるいは、強化された目である。本作は、大きくわけて、モノローグと重なりあう手ぶれ映像(ショット)、固定フレームの映像、パイクばりの振回し映像で構成されている。その中で、なぜか安定しているはずの固定フレーム映像が不安を助長する。おそらくそれは、本作で貸し出される目が、ハンディーカムによって作家本人の生身の身体と連動することで担保されているからだろう。固定フレームが挿入されると、われわれにとって唯一の手がかりを失うことになる。こうした点でも、本作が採用する映画形式は多分に身体的である。


■場所不在

本作で、疑似同期(同位)して再現されるのは、フローの郊外である。その景色の記憶や、そこに現れた場所不在は、今を生きるわれわれにほぼ共有されている。ただ、世代によって捉え方が異なる。佐々木氏より四半世紀年上の私や、私達世代は、現前したこの景色に途方にくれ、還るべき場所を探している。それに対して、郊外に生まれ育った佐々木氏世代は、当然のようにこの景色に対する思い入れや振る舞いが異なっているはずだ。
場所不在を生き抜くのは容易でない。願うべきは、そして佐々木氏世代に少し期待するのは、この状況の突破である。ただし、本作に再現された郊外は、佐々木氏と佐々木氏世代の懐かしさや郷愁の現れではないか。そうだとすると、還るべき場所を探して彷徨うわれわれと変わりない。そこに還れたとしても、そこは場所不在の場所であり、不安は増大するばかりである。
結局は動くしかない。佐々木氏の今後の活動に注目していきたい。


 


「夢ばかり、眠りはない」レビュー

石幡愛(東京大学大学院教育学研究科)


佐々木友輔氏の「夢ばかり、眠りはない」は、3つの意味で、自己言及的な映画である。まず、佐々木累によって撮られた作中作であるはずの映画が、この映画自体であるという点において。次に、手ブレの風景を通して、ここにいる「私」の存在が確定されるという点において。さらに、引用された文献が、映画全体のメトニミーとして、この映画が何ものであるかを示しているという点において。

ひとつめの自己言及性について。この作品が、作中作としての擬似ドキュメンタリーという形式を取っていることを暗に提示されたとき(それは日記を朗読する女性が、佐々木累の失踪について語る場面だ)、私は、自分の中にある不安が生じるのを感じた。それはおそらく条件づけられた不安だと思う。というのは、そのとき連想したものが、夢野久作の「ドグラマグラ」だったからである。

「ドグラマグラ」では、逆行性健忘の精神病患者と思われる主人公が、作中で、ある精神病患者が書いたとされる「ドグラマグラ」という本を見つけ、それを読む。作中作「ドグラマグラ」では、読者が手にしている「ドグラマグラ」の内容がまったく同じように反復される。こうして、「ドクラマグラ」の主人公が作中作「ドグラマグラ」の作者であるという構造とともに、その「ドグラマグラ」を手にしている読者自身が、逆行性健忘の精神病患者であり、「ドグラマグラ」の作者でありうるという構造までを、その作品は示していたのだ。

「ドグラマグラ」のメタフィクションと「夢ばかり、眠りはない」の擬似ドキュメンタリーとの類似が、私を不安にさせたのだと思う。しかし、それは同時に、この作品を撮った佐々木友輔氏と、彼の作品の中でこの風景を見た佐々木累と、彼女が限りなく近づこうとした加藤智大と、そして観客である私とが、もしかすると同じ人間でありえたかもしれないという可能性をも示すのである。

ふたつめの自己言及性について。この作品の特徴である手ブレの映像は、ビデオカメラのこちら側にいる生身の人間の存在を意識させる。それは、外界の知覚によって定められる観察点としての自己、エコロジカル・セルフでもある。つまり、この作品は「風景映画」でありながら、実は、風景との関わりによって、佐々木氏自身の自己を定位しようという試みであると言えるのではないか。そして、身体の同型性ゆえに、観客もまた、その試みを追体験することになるのだ。

手ブレの映像は、先に述べた作中作としての擬似ドキュメンタリーという形式とあいまって、複数の語り手(観客をも含めた複数のK)の間に、並び身の関係を形作る。隣に座って互いに相手の身体の動きをなぞるような感覚、あるいは同じ風景を見ているような感覚だ。正面から向かい合うことをせずに、隣に座ることを選んだ佐々木氏のそのおずおずした態度に、私は好感を覚えた。というのも、彼がこの映画を届けたい相手が、「事件の衝撃やメディアイベントをたくましくスルーする」ことのできないナイーブな人々であるならば、隣に座るという方法が最も適切だと思うからだ。

みっつめの自己言及性について。佐々木氏は、この映画を撮った背景と方法を、映画そのもので語っている。私は、作品を作ろうとする準備自体が作品であったかのような、あるいは、舞台裏が舞台で、開演を迎えるころ終演を迎えるかのような印象を受けた。それは、この作品の大半を構成する文献の引用と、日記と称される考察が、佐々木氏の制作動機と制作過程を示しているように読めるからだろう。

特に、ウィリアム・バロウズの「ノヴァ急報」の引用(※)は興味深い。そこで提示されたバロウズのカット・アップという手法は、佐々木氏の映像と日記を切り刻んで再構成するという手法のメトニミーとして、「夢ばかり、眠りはない」の形式そのものを説明している。

文献の引用によって、私は佐々木氏の思考をたどることができた。そればかりでなく、私の思考は、引用元の背景に広がる膨大な情報(例えば、その著者の思想)にまで遡って、別のストーリーが映画と並行して展開していくのだった。文献の引用をあえてあからさまにするという手法は、佐々木累のモノローグに見えて、複数の語り手によるポリフォニーであるというこの映画の性格を、やはりメトニミー的に表しているのである。

以上のような自己言及性が、映画や芸術の評論の文脈において、そのように位置づけられ、評価されるのかについては、私にはほとんど分からない。けれども、私にとっては、自己言及性こそがこの作品の面白さであり、3度も見に行ってしまうほど惹きつけられた要因だったのだ。


※エンドクレジットへの記載は『ソフトマシーン』ですが、『ノヴァ急報』にも引用箇所とほぼ同じ文面が登場するため、原文のままで掲載させて頂きました。


 



西田陽美(大学生・東京芸術大学)


主人公の彼女の日記を読み上げる背後では、見慣れた新宿や秋葉原の駅の映像や、見覚えのある「どこでもない」郊外の映像が流れる。いつでもない、どこでもない、決定的な瞬間のないただ漠然と流れて行く景色や通り過ぎていく目の前の物を眺める映像は、匿名の視線として同様の景色を眺めた目を持つわたしたちの内側に入り込んでくる。同じ景色を眺めていたときの、それぞれに居合わせた感覚や感情の重みのようなものを孕んでいる。夜の山手線でみた新宿駅。終電の帰り道に自転車をこぎながらすれ違う人の顔。誰でもないし、どこでもない、誰でもいいし、どこでもあるその瞬間。それは、主人公の女性の視線であり、映像を撮っている佐々木さんの視線であり、上映を見ているこのわたしの視線でもある。

作品の中でその作品自体の成り立ちに言及しているという点で、この作品は、いわゆる「メタ」な構造であると言えるだろう。ある出来事について向き合う彼女を、別の時間から遡っていくという俯瞰した視線から成り立っている。しかし「ACT」と表記される、佐々木累(彼女の身体)とビデオカメラ、そして撮影している土地(の景色や音)が重なり合うようなシーンの後にやってきたその撮影している様子を捉えた映像はそんな俯瞰した視線もまた、同様に彼女自身の視線であるかのような混乱を来させる。彼女を見ているのは誰なのか。駅の改札へ向かうあの階段の映像が、あの日に見ていた自分の視線とも重なるのと同様に、彼女を見ているのも同様にこのわたしなのではないだろうか。彼女が秋葉原の事件の日以降から日記を書き、夜の街を放浪し、葛藤しながら映像を撮っていたのは他でもない、このわたしがこうして映画を眺めている世界なのではないだろうか。

そもそも、この映画の中で最も気になるのはこの映画に付けられている設定である。佐々木累という(おそらくは)架空の人物が全編の映像を撮影しており、また文章も彼女の日記であるという説明のもとに全ては語られる。彼女は作中で「架空の人物を作りだし、その彼に全てをゆだねようと思う」というような発言をしていることから、この映像を作っている作者である佐々木友輔本人が同様に「佐々木累」を設定して彼女に彼自身の問題を語らせているという構図であることが想像される。エンドロールにまで架空の彼女の名前をクレジットするその所作は、作品の中で起こっている出来事とこの映画をみているこの現実との境を曖昧にする。佐々木累という人物は現実に居て、現実にありそうもないような、しかし事実起こった事件とそれにまつわる彼女自身の問題に腐心し続けていたのではないだろうか。この作品は、全ての出来事が起こっているのはこの上映が行われているこの世界そのものであると名指しする。一度、フィクションの()の中に現実の自分自身の出来事を囲い込みながらも、作品自体の成り立ちに言及することで改めて「この現実」に立脚していると宣言するのだ。上映を目の当たりにするこのわたしにも作中で起こった出来事が、同じ視線を持つものとしての選手枠を用意し、パスを出している。




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